海が空を覆った日、人々は静かに空を見上げていた。

その日、朝から港には妙なざわめきがあった。風が止み、波の音も途絶え、代わりに――魚の匂いが、空から降ってきたのだ。

最初に現れたのは、鋭いひれだった。
続いて銀色のうろこ、黒い背中。マグロだった。しかも、空を泳いでいた。

まるでそこが本来の海であるかのように、マグロの大群が空をぐるぐると旋回していた。
どこかへ向かっているのか、あるいはこの世界の上空に定住しようとしているのか、誰にも分からなかった。

人々は屋根の上に登り、空に網を投げたり、笛を吹いたり、ただ黙って眺めたりした。
そして気づいたのだ――マグロの大群は、ある歌に反応している。

古い子守唄。
かつてこの町で、海の神に捧げるために歌われていた旋律。

誰が最初に歌い出したのかは分からない。
けれど、誰かが声を上げた瞬間、マグロたちはくるりと空中で方向を変え、歌声の上に集まりはじめた。

やがて、空は完全に魚で覆われ、昼なのに夜のような暗さになった。

けれど、不思議と怖くはなかった。

それは、失われていた“もうひとつの海”が戻ってきたような、そんな感覚だった。

やがて歌が終わると、マグロたちは一斉に旋回をやめ、まっすぐ北へと向かって飛んでいった。
ひとつの群れになって、空の奥の奥――見えない海へと帰っていった。

そして、静けさが戻った。

空は青く、風は少しだけ、塩の匂いがした。

それ以降、マグロの大群は二度と現れなかった。
でも人々は、毎年その日になると、あの歌を空に向かって歌うのだった。

まるで、またいつかあの海が戻ってくることを、願うかのように――