「沼泥沼って知ってる?」

クラスの図書委員、佐藤がぽつりと呟いた。

「そこに落ちると、“反対の世界”に行けるらしいよ」

反対の世界。言葉の響きが気になって、俺はその夜、夢遊病みたいに自転車を漕いだ。月が濃く照らす田舎道、誰もいない山の奥――そこに、“それ”はあった。

看板も柵もない、ただの水たまりみたいな沼。だけど、覗き込むと底が見えない。まるで空を反射したみたいに、星が逆さに浮かんでいる。

俺は、迷いもせず足を踏み出した。

一瞬で視界が反転し、重力が消えた。

気がつくと、学校にいた。けれど、そこは“いつもの”じゃなかった。

同じ制服、同じ校舎、でも、みんなの性格が真逆だった。

いじめられっ子だった和田が、クラスの中心で笑い声を上げている。無口だった美術部の岸本が、壇上で堂々と演説している。逆に、普段明るいはずの親友・タケは、教室の隅でうつむいていた。

「君、転校生?」

佐藤が声をかけてきた。でも、目が笑っていない。
この世界では、俺が“いなかった”世界らしい。

夕暮れ、俺はまたあの沼を探した。だが、どこにもなかった。

あれから三日が経つ。元の世界に帰る方法は、わからない。
けれど、この世界の俺は、なんだか「上手くやってる」らしい。

昼休み、タケに話しかけた。

「なあ、沼泥沼って、知ってる?」

彼はしばらく黙って、それから笑った。

「……そっちから来たのか」