その村では、毎年秋になると「鬼時雨」と呼ばれる奇妙な雨が降った。
細かい霧のような雨で、空はさほど暗くない。
だが、降り始めると、どこからともなく鬼たちが現れるのだった。

鬼たちは、誰にも危害を加えない。
ただ、濡れた田んぼのあぜ道を静かに歩き、川沿いの石段に腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げる。
子どもたちがこっそり近づくと、鬼たちは目を細め、寂しそうに笑った。

「なあ、母ちゃん、あれ、怖くないの?」

ある年、小さな男の子が尋ねた。
母親は畑の手を止め、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。

「あれはな、帰ってこれなかった人たちなんだよ」

昔、この村では大きな戦があった。
多くの若者たちが命を落とし、帰りたくても帰れなかった。
無念を抱えたまま、この世に残った者たちが、鬼の姿になったのだと。

「でもな、あの時雨は、優しいんだよ。
少しの間だけ、この村に帰してあげるんだ」

男の子は、田んぼの向こうで座り込む鬼たちを見た。
誰も泣かず、叫ばず、ただ静かに、懐かしそうに村を眺めている。

鬼時雨は三日三晩続き、やがて何事もなかったかのように晴れる。
晴れた朝には、鬼たちの姿はどこにもない。
ぬかるんだ田んぼに、ぼんやりとした足跡だけが、残されていた。

男の子はその足跡に、小さな手でそっと触れた。
冷たく湿った土の感触の中に、どこかあたたかいものを感じた。

「また来年、会えるかな」

ぽつりとつぶやくと、秋の匂いを含んだ風が、そっと頬を撫でた。